2023/06/06
93歳の薬剤師の女性 Aさん
100年以上やっている薬局の2代目の妻。
ここ何年かは足腰が辛く、ほとんど店先に立つことは無くなったが、古い常連さんがくると顔を出す。
厚労省の検索サイトから薬剤師免許登録年を検索したら、なんと昭和20年代だった。
そんな大ベテランの薬剤師から何か学べることはないかと、若い頃の薬局事情や体験談を聞いてみた。
昭和20年代(戦後)
薬学部を卒業し国家試験に合格後、地元の総合病院に病院薬剤師として就職。
5〜6年ほど働き、その間に結婚、出産を経験。
退職後は夫の経営する薬局(2代目)で働くことになる。
新米薬剤師として就職した総合病院、現在は地方の大病院となっているが、当時は病床は少なく薬剤師が4人しかいなかったとのこと。
当時の新米薬剤師の仕事といえば大きな乳ばちと乳棒で薬をひたすらかき混ぜることだったそうだ。
錠剤などはほとんどなく、多くの薬が粉。
そして分包機などあるわけなく、全て手作業で紙の分包紙を折って包む。👈(私これ実習でやりましたけどもう折れません)
蒸留水を院内で作っていたため、一人での宿直時に蒸留装置の見張りを怠りあわや火事にしてしまうところだったと、失敗談も話してくれた。
薬剤師の仕事として、今のように病棟へ行って薬の説明をするなど、患者さんとの接点は全くなかったとのこと。
「医師から理不尽な要求などされることはなかったですか?」
との問いに、
「そういうことはなかったね」
と良好な関係を築けていたことを話してくれた。
ある日のこと
そんな薬剤師としての人生の中で、歴史的大事件を体験した。
いつものように仕事をしていると病院全体が騒がしくなり、理由も聞かされず帰宅しなさいと言われた。
後日 聞かされた事実は
「被爆者が搬送されてくるため二次被爆を防ぐために帰宅させられた」
とのことだった。
その被爆者とは第5福竜丸の船員だ。
広島、長崎、第五福竜丸。
この3つは日本人として知っておかなければならないキーワードである。
知らない人はWikiってください。↓
生涯にわたって勉強家
Aさんは勉強家だ。老眼で耳も遠く不自由そうだが、本も読むし音楽も聴く。習い事もしている。思考がとてもポジティブだ。焼肉にもよく行く。
常に何かを学んで、何かしらの形で出力している。
「そんなAさんの経験から我々のような、今を担う薬剤師にメッセージ的なことないですか?」
の問いに、
「知識は自分を助けてくれる」
と言ってくれた。